約束の日記

             

 それは、古びた日記だった。

 飾り気のない表紙は色あせていたが、大切にされてきたのだろう。けして不潔な感じはしなかった。

 突然送られてきた小さな小包。その中身がこれだった。

 送り主の名はない。

 宛名にはわたしの名前。

 年頃の少女特有の丸文字で綴られた妙な日記は、しかしまるで心当たりがなかった。

 普段なら見向きもしなかっただろう。

 でも、なぜか。

 ――それは偶然だったのか。

 ――ほんの一時の気まぐれだったのか。

 「わたし」はその日記を読み始めた。

 名も知らぬ「あたし」が綴った、その日記を。

 それはこんな一文から始まっていた。

 ――あたしは恋をしました。

 ――あなたの知らない「彼」と。

        ♪

「はいはいはいッ、どいたどいたぁ!」

 暖かな日差しが降り注ぐお昼どき。

 ひとりの少女が廊下を疾走していた。

 かわいいシールつきの上履きが唸りをあげ、

丈の短いスカートが容赦なく翻る。

 階段を四段飛ばしで駆け下り、目的地を視界に捉えた。刹那、

 「おばちゃあん! Ω(オメガ)メンチコロッケパンちょぉだぁあーい!」

 

 少女――彩梨(あやなし)明架(めいか)はふくれていた。

 その手の中には購買での戦利品が三つ。

 コロッケパン――普通のコロッケパン。

 焼きソバパン――男子に人気。

 メロンパン´(ダッシュ)――中身が本物(創作品)。

 ……ため息ひとつ。

 「今日もダメだったか……」

 自慢のショートヘアーもすっかりしょんぼりしていた。

 286敗0勝。

 高校に入学してから現在にいたるまでの戦歴はこの通りだった。

 腹いせにと、焼きソバパンをやや強引にほおばる。安物の味がした。

 「ありゃりゃ、ひっどい顔。今日もだめだったのか、明架」

 唸りながら目を向けるとムカつく顔がそこにあった。細身の少年。

 「よう、おはようさん」

 「もうお昼よ、寝ぼすけ魔人」

 少年は明架の横に腰をおろした。

 ふたりのいるのは学校の屋上だった。

 五月の風はほど良く心地よかった。

 「いいご身分ね、雅孝(まさたか)

 「幽霊ですから」

 ニヤリと笑う。

 いつも通りふざけたヤツだった。

 呆れつつもいってやることにする。

 「そんな出席率でいいと思ってんの? 今年こそ確実に留年するわよ?」

 「ん〜、まぁそうなるかも」

 「親が泣くよ」

 「もう泣いてる」

 「……あっそ……」

 色白の肌に、そこそこ整った顔立ち。見てくれは悪くないが、性格は捻れている。

 伊藤(いとう)雅孝(まさたか)とはそういう少年だった。

 一年と少し。

 屋上だけのふれあい。

 友達よりはちょっと違くて、

 恋人などではもちろんなくて、

 でも、知り合いよりはちょっと近い。

 微妙な関係。

 数日おきにひょっこりやってくる雅孝と昼休みが終わるまでどうでもいいことを話し、

チャイムと同時に帰ってゆく背中を見送る。

 (……ヘンなの)

誰に向けた言葉か、明架は心の中で呟いた。

 

「さて、そろそろ帰るかな」

よいしょ、などといいつつ雅孝が立ち上がった。時計はチャイムの二分前を示していた。

少しお節介をやいてみる。

「ちょっとは授業でてけば? たまには顔出さないとクラスの連中に忘れられるよ?」

雅孝はわざとらしく肩を竦め、

「とっくに忘れてるさ。別にどうでもいいけどな」

最初はあたしも忘れてたけど、と明架もひとりごちた。

(ま、あたしも人のことはいえないけどさ)

と、出口に向けて歩き始めた雅孝が顔だけ振り返って一言。

「またな」

明架は何も返さず、ただその背中を見送っていた。

 

明架が教室に戻ると、クラスメイトは一瞬だけ沈黙し、またそれぞれの会話を再開した。

小声のささやきが聞き耳をたてずとも聞こえてくる。

(戻ってきたぞ)

(ったく、いいとこだったのに)

(おい、そういやさっき不登校の伊藤が屋上にいくの見たぜ)

(マジかよ)

(あいつも物好きだよな……{発症者}と関わってもいいことなんかないのによ)

彼らは何も知らない。

明架の昼休みのことも。

明架自身のことも。

何も。

      

ある昼休みの屋上。明架と雅孝はまたここにいた。

「まだあんた忘れられてなかったわよ。残念だったわね」

半分以上皮肉でいってやる。

が、

「そうだな。とっとと忘れてくれりゃいいのに」

まったくこたえていなかった。

なぜこんな図太いヤツが不登校などを洒落こんでいるのか、本当に疑問になる。

「忘れられたいの?」

「ああ」

即答だった。

まったくわからない。自分のような{発症者}ならまだわかる。

未来などあってないようなものなのだから。

でも雅孝は違う。

未来がある人間が、なぜここまで今をかえりみないのか。

「じゃ、あたしもとっとと忘れようかな」

「借りを返してからな」

「チッ……」

雅孝はいやらしく笑っていた。

ムカついたので二十発ほどどついておいた。

 

 

西暦2023年現在。

世界にはある特殊な病が広まっていた。

その病はけして命は奪わない。

あるいは病とすら呼べないかもしれない。

患者は自分自身でそれを悟り、あとは潜伏期間という名の執行猶予の時間をどうすることもできずに過ごすこととなる。

原因は不明。

治療法も不明。

その謎の多さからか、一般人は{発症者}を忌み嫌う傾向にある。

ただ、ごく少数のケースで自然治癒が確認されている。

 

 

「……ただいま」

返事がないことを知っていても、いままでの習慣はなかなか消えない。

無人の静けさだけがそこにあった。

かつては家族と暮らした家。

だが、もうここには誰もいない。

明架以外には。

鞄を放り投げ、窮屈な制服を適当に脱ぎ捨てた。なにをする気もおこらずそのままソファに倒れこむ。

親を恨んではいない。

――母はこの事態に耐えることができなかった。

――そして、父は母を守ることを選んだ。

それでいい。

きっと。

正しい答えなど、自分には分からない。

だから、これでいい。 

いいんだ……。

明架は目を閉じ、やがて眠りにおちた。

        ♪

それは、よくあるただの晴れた日だった。

高校に入学したての明架は、人気(ひとけ)のなさそうな昼食スポットをさがしていた。

手にぶら下がっているのは、かわいい水玉模様の小さな包み。

母お手製弁当だった。

最初の昼食のとき、その日に話した女子と机を囲んだ。それぞれのおかずをつまみつつ友好を深めようという初接触である。

まわりが弁当箱を開けていくなか、明架は自分の弁当を見て凍りついた。

まず目にはいったのはハートだった。ご飯を埋め尽くす色とりどりの()ぼろ(・・)がキュートなハートを形作り、あまつさえ虹色を形成していた。

 おかずはすべてかわいい仕切りによって綺麗に区切られ、無論のごとくタコなウインナーもウサギなりんごもそこにあった。

 顔から火がでそうだった。

 今日び小学生ですら、ここまで徹底はしていまい。中学生まですべて給食で、弁当の機会がなかったことが災いした。

 この日以来、明架は友人と昼食をとっていない。恥ずかしくて、できない。

 母は料理は上手いが、年頃の娘を理解してはいなかった。なおかつすごく優しい顔で「おいしかった?」などと聞くものだから、文句も言えず、今に至っている。

 今日の向かうさきは屋上。

 定番な気もするが、なぜかこの学校ではあまり好かれない場所らしい。好都合。

 薄汚れた階段を越え、軋む鉄製の扉を押し開ける。

 そこには、広い青空と。 

 心地よい風と。

 先客がいた。

 

それは、よくある晴れた日で。

伊藤雅孝と出逢った日だった。

 

雅孝は変な男だった。

話をしているうちにクラスメイトだと知った。そういえば初日以降ずっと空いている席があったのを思い出した。

さらに、こちらからの質問はのらりくらりとかわすくせに、こっちのことをすごく聞きたがる困ったヤツだった。

不公平だと口をつぐむと、雅孝はあるものを差し出してきた。

Ω(オメガ)メンチコロッケパン)とパッケージに書かれた購買パンだった。

噂だけは聞いたことがあった。

あまりの美味さに常に売り切れという、幻のパンである。

なんでもこのパンの為だけに、購買がパンを販売する時間(三時間目中盤)を狙って遅刻してくる猛者までいるらしい。

こんなもので買収したつもりか、となめきって一口齧った。

……スリーサイズまで喋ってしまった。

恐ろしいパンだった。

比喩でなく本当にほっぺが落ちそうになってしまったくらいだ。

別れ際、乙女のシークレットステータスまで暴露し羞恥のドン底にいた明架に、雅孝はこう告げた。

「あれ、おごりじゃないからちゃんと返せよ」

地獄に落ちろと思った。

 

それからも、雅孝との交流は続いた。

発症しても。

それだけは変わらなかった。

 

「いい天気ね」

「そうだな」

「あの雲、チョココロネに見える」

「大食い(小声)」

昼休み終了後、ボロボロになった雅孝が屋上の片隅に転がっていた。

 

「いい風ね」

「そうだな」

「寝転んでみるとすごく気持ちいいわ」

「パンツ見えてる」

昼休み終了後、血まみれになった雅孝が屋上の片隅に転がっていた。

 

「今日もいい天気ね」

「……」

「……なんでなにも言わないわけ?」

「……暴力反対」

「……(ムカ)」

昼休み終了後、やはりボコボコになった雅孝が屋上の片隅に転がっていた。

 

そんなたわいない日常が続いていた。

なにもない学校の屋上で。

たったふたりだけの日常が。

ずっと。

       ♪

……優しいまどろみ。

これは夢なんだ。

「普通」でなくなってしまった自分に、「普通」の日常などありえるはずがない。

だから、これは夢。

これ以上のめり込んでしまう前に。

夢から目覚めなければならない。

それが、正しいんだ。

きっと……。

その日、明架は声もなく泣いた。

 

 

昼休みの屋上。

今日も明架はここにいた。

パンを齧りつつ、問いかける。

「……あんたさぁ、なんであたしにかかわるの? 知ってんでしょ、あたしが発症者だってこと」

雅孝は振り返りもせずに答える。

「変か?」

「変よ」

発症者は疎まれる。

自分に伝染する可能性が、あるから。

裏付けは何もない。

病かどうかさえ、解明されてはいない。

しかし、ゼロでない可能性は畏怖につながる。

「誰でも自分(・・)()消える(・・・)ということは恐ろしいはずだもの。あんたは違うの?」

確認の意味での問い。

夢から目覚める為の問い。

でも雅孝は、

「そうだな。でも、ひとは誰しもいつかは消える。死という形でな」

思ってもみない切りかえしに、明架は戸惑った。

「消えることは恐ろしい。でも明架は普通(・・)を続けている。俺からすれば、そっちのほうが不思議でしょうがない」

雅孝が振り返る。

そこから感情は読み取れない。

でも、その瞳は揺れているように見えた。

「自暴自棄になったり、引きこもったり。俺ならまともじゃいられない。どうしたら、そんなに強くいられるのか。俺は、むしろそっちが知りたい」

おかしい。

返ってくる言葉はこうじゃないはず。

なんで、この男は。

「俺は明架に興味がある。最初に出逢ったあの日から」

雅孝が、一歩踏み出す。

近づいてくる雅孝を、避けることはできなかった。

吸い込まれそうな瞳が、目の前にあった。

一瞬だけ、触れ合った。

 

ああ、なんでこの男は。

 

「最初に出逢った日から、ずっと明架だけを見てきた。だから、分かる。明架が無理してること。それが、辛い」

 

この男は、なんで。

 

「明架が、好きだから」

 

あたしを「普通」の女の子として、

接してくれるのだろう。

 

涙が、こぼれた。

雅孝の胸の中。

情けないくらい、泣き続けた。

 

 

「あたしは、意地をはってたんだ」

明架はポツポツと語り始めた。

雅孝は明架のかたを抱き、ただ耳を傾けていた。

「発症して、すべてが変わっちゃった。お母さんがノイローゼになって、お父さんはお母さんを守る為にあたしから離れていった」

本当はかばってほしかった。

家族だから。

親子だから。

でも、守ってはくれなかった。

「学校のみんなにもなんでかバレちゃってて、独りになったの」

バレていなかったなら、いっしょに思い出をつくりたかった。

バレていても認めてくれていたなら、泣きつきたかった。

でも、そうはならなかった。

「怖かった……まわりから誰もいなくなっちゃって。普通がなくなっていって」

家族も。

友達も。

誰も守ってくれないなら、自分を守れる者は自分しかいなかった。

「だから、必死になって普通でいた。普通に学校にいって、普通に勉強して、普通にご飯食べて……」

なにも取り戻せなかった。

なにも元には戻らなかった。

「普通」の日常など、どこにもなかった。

ただ、一箇所をのぞいては。

「そんな風に考えていたら、急に不安になったの。だってあんた、何も言ってくれなかったから」

この僅かな繋がりが消えてしまったら。

肩を抱く手に力がこもったのが分かった。

「ただの興味本位とかだったら、切るつもりだった。そしたら、わたしは――」

最後まで言う前に、抱きしめられた。

痛いほどに、力を込めて。

これが温もりなのかなと、ふと思った。

「もう、大丈夫だから。俺が、そばにいてやる。だから」

泣くなよ、そういって、キスをした。

長い、長いキスだった。

 

「あと、どれくらいなんだ?」

雅孝の声は震えていた。

嘘など、つけなかった。

明架はこの夏を越えられない。

 

明架(・・)()消える(・・・)まで

――あと三ヶ月。

 

 

その「病」は「人格」の消失。

それは即ち、個としての存在の消失にほかならない。

「人格消失」、または「人格変換」と呼ばれているそれは、分かりやすい症状としては、外見はそのままで中身が完全に別の人格にすげ替わった状態になる症状である。

俗に言う「記憶喪失」の症状に似ているが、それと明らかに異なる点が、当人の人格がどうなったかがわからないところにある。

新しい人格は症状を自覚していないことは勿論の事、今までの人格のことも記憶にはなく、家族さえも見覚えのないという「まったくの別人」である。

さらにこの人格は、完全に独立した過去の記憶まであわせ持つ「ひとりの人間」として存在する為、さらに問題を拡大させる原因となっている。

とある国の一部の地域から広がるようにように発症者が続出したため「病」とされているが、詳しいことはまったく解明されていない。

発症者はその後「自分(・・)()名前(・・)」に改名され、それぞれの人生を歩んでいく。

無論「今までの人格」とはまったく違う道を、である。

このことについて、平行世界間の人格移動説や、深層意識の分離説など、さまざまな学説が飛び交っているが真相は未だに不明。

発症者の家族などは、なまじ姿が変わっていないだけに患者の消失を認めきれず、精神に変調をきたすケースも少なくない。

が、統計から「人格」が元に戻ったという報告も、少数ながら存在する。

その確率。

僅か0.5%。

現代の、

もうひとつの「死」のかたちである。

 

 

それからふたりは必死に思い出を刻んだ。

心にも。

体にも。

たとえば、

今日はいっしょに夕ご飯を食べたとか。

散歩してたら綺麗な花を見つけたとか。

いっしょに一日中昼寝したとか。

手をつないでドキドキしたとか。

将来の夢を語り合ったりとか。

夜通したわいないおしゃべりをしたとか。

海で遊んで楽しかったとか。

大声で「好き」って叫んでみたりとか。

デートでお互いにプレゼントしたりとか。

いつしか学校にもいっしょに行くようになった。

そんな、なにげないことを。

そんな、なんでもない日常を。

大切に、大切に刻んでいった。

 

「俺ん家ってなかなか由緒ある家でさ。兄弟の中で俺はすげー出来が悪かったんだ」

ある日、雅孝は明架に告げた。

自分が家族の中で出来損ないであること。

そんな重圧で潰れて不登校になっていたこと。

そして雅孝もまた、なんでもない日常を求めていたこと。

「昔は違ったんだ。頑張れば親が褒めてくれて、友達が応援してくれて……」

いつしかすべてがダメになっていた。

「俺は、俺は……」

明架は雅孝を抱きしめた。

「他の奴らからは忘れられても構わない。でも、おまえは、おまえだけは……」

いつか、こうしてくれた時のように。

雅孝は泣いた。

すべてを包み込めるように、明架も抱く手に力を込めた。

でも、

もう時間は残されていない。

 

明架の消失まで

――あと7日。

 

 

その一週間はほとんど覚えていない。

 ただ、数え切れないほどの幸せがそこにあった。

 お互いを認め、認められて。

時間というものの大切さと、残酷さを知った。

自分は酷い女ではないかと、明架は思う。

 自分は消え、そこには自分の抜け殻と雅孝だけが残る。

 それを知りつつ、どうにもできない。

 それを知りつつ、最後までいっしょにいる。

 でも、

 それを望んでくれたこの人となら、

 ただの悲劇ではなく、

 別の結末が訪れるのではないか。

 別の何かが残るのではないか。

 そんな、気がした。

 だから――

 

 明架消失。

――その日。

 

 

ふたりは学校の屋上にいた。

ここがふたりの始まりの場所だったから。

時間は夜の十時。

雲のない、綺麗な夜空だった。

学校側もこちらの事情を知っていたのだろう。特に説明もなく承諾してくれた。

「お父さんとお母さんのこと、怒らないであげて」

沈黙を、明架のそんな言葉が破った。

雅孝が内心驚いたことに気がついたのだろう。明架は続けた。

「お母さんはそれだけあたしを想ってくれてた。だから、壊れちゃった。お父さんは……」

どちらともなく強く手をつなぐ。

「こうやって愛しあった人を選んだ。だから、誰も悪くないの。それは、最初は少しは恨んだけど」

見つめあう。

両親も、こんな気持ちだったのだろうか。

こういう気持ちで、愛しあったのだろうか。

自然と、微笑めた。

「これを、切り捨てるなんて考えられない。多分、一番苦しんだのはあのふたり……だから」

雅孝の顔から強張りが抜けた。

優しく笑いかける。

「……分かった。まったくとんだお人好しだな、おまえも」

わしわしと明架の頭を撫でた。

このことに対し、誰よりも怒りをおぼえていたのは雅孝だったのだろう。

明架の為に、怒っていたのだ。

それが嬉しくて、明架の頬は自然と緩んでいた。

「なにニヤニヤしてんだよ、おまえは」

「別に〜」

「なんだよ、怪しいな。このっ」

いつものようにじゃれあって、

ささやかな幸せのなか、

それは、きた(・・)

 

 

 一番先に空気が変わった。

 そして、微かな耳鳴り。

 近づいてくる、何か。

 それを感じた。

 緊張と、恐怖で喉がひりつく。

 「……来たのか?」

 雅孝の声。

頷いてかえす。

 「時間みたい……」

 カタカタと体が震える。

 そんな明架を、後ろから雅孝が抱きしめた。

 雅孝もまた、震えていた。

回された手を、明架も強く握った。

 静かだった。

 派手な音も光もなく、ただ静かに替わって(・・・・)いく(・・)

 裏返した砂時計のように、ひどく緩慢に。

 そして、確実に。

 「お別れじゃないから」

 明架が呟く。

まるで自分に言い聞かすように。

「……分かってる」

どちらも、声が震えていた。

「いっしょにいてくれて、ありがと」

「それは俺の台詞だ、バカ」

グッとくる。でも、明架は続ける。

「必ず、帰ってくるから。……待っててくれる?」

「……当たり前だ、……バカ」

「……?」

首だけで振り返る。

雅孝は、泣いていた。

声を殺して、震えながら。

必死に耐えて、限界がきてこぼれた。

そんな印象を受けた。

明架は思う。

自分は、この顔を一生忘れない。

自分の為に流された涙。

決してかっこいいものではない。

でも、自分にとっては、何よりも尊いものだと思った。

「……頑張るから」

震える声で、雅孝が告げた。

「強くなるよ、おまえみたいに。それで、胸張っておまえの隣に立てるように……」

「……ばーか」

あたしは、強くなんかないよ。

もし、あたしが強く見えたのなら。

それは、

ぜんぶ、あなたのおかげ。

ありがとう。

あなたがしてくれたこと、すべて。

そして、

最後にもう一度、

伝えたい言葉。

「……だいすき」

いつまでも。

絶対に。

 

それが、

最後だった。

すべての意識が、消えた。

 

       ♪

 

これは、なんだろう。

気がつけば最後まで読んでいた。

古ぼけた日記。

「あたし」が記した小さな恋物語。

最初の日、「彼」と出逢った日から始まり、別れる日で終わる。

最終日だけ、筆跡が変わっていた。

おそらく、このあとにここに書かれていた「彼」が書き足したのだろう。

いや、重要なのはそこではない。

重要なのは、これを読んでいる途中からあたかも(・・・・)自分(・・)()過去(・・)()記憶(・・)()なぞって(・・・・)いる(・・)()()感じた(・・・)ことだ。

「わたし」の記憶ではない。

こんな思い出はない、ハズだ。

この日記も、見覚えはない。

「彩梨明架」という名前は「わたし」の名前ではない。

「伊藤雅孝」という名前にも、聞き覚えはない。

ならば、なぜ。

こんなにも胸が痛いのか。

……こんなにも、涙が流れるのか。

「……っ、ぅう……く……」

なぜ。

なんで。

「わたし」は。

「わたし」は……。

「わたし」、は……。

 

確かめるべきことだ。

これは、ひどく大切なことに思えた。

最後のページにあった一文。

今日の日付と、とある地名。

そこには、ただ一言。

「ここで、おまえを待つ」

 

――伊藤雅孝

 

       ♪

 

こんなに走ったのはどれくらいぶりだろうか。

県をまたいだ向こう側。

駅からの道のり。

止まることなどできなかった。

地名の場所に建つ、とある高等学校。

やはり見覚えはない。

でも、目指す場所はただひとつ。

「あたし」たちの始まりの場所。

――屋上。

 

一時すら惜しかった。

土足のまま校舎にあがりこむ。

薄汚れた階段を越え、軋む鉄製の扉を押し開ける。

 そこには、広い青空と。 

 心地よい風と。

 先客がいた。

 

その人物はこちらに背中を向け、この場所に似つかわしくないスーツを着込んでいた。

年の頃は三十から四十代ほど。

振り返る。

その手には、花束が握られていた。

「……。その様子じゃ、まだ帰って(・・・)きて(・・)ない(・・)みたいだな」

男はやれやれといった感じに息をついた。

「わたし」は呼吸をするのを忘れるほど目の前の男を凝視していた。

見覚えはない。

が、この男が「伊藤雅孝」で間違いない。

なぜ。

この確信はどこから来る?

「わたし」は……、

「あたし」は……。

男が、一歩踏み出す。

「もう少しって感じか? ったく……()()十年(・・)()帰って(・・・)きたって(・・・・)()()

男が近づいてくる。

近づいてくる男を、避けることはできなかった。

吸い込まれそうな瞳が、目の前にあった。

一瞬だけ、触れ合った。

 

なにかがあふれた。

そして、涙がこぼれた。

 

「……まさ、たか……?」

男が嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、おかえり」

万感の想いを込めて、

明架(・・)

 

       ♪

 

「約束しない?」

夏に近づき始めたある日、明架がそんなことをいった。

「なにを?」

明架はジャーンなどといいつつ鞄から一冊の冊子をとりだした。どうやら日記らしい。

「それが?」

よく分からないといいたげな雅孝。

ふふん、と鼻を鳴らし得意げに、

「これはあたしの日記。あんたと出逢ったころからいままで、そしてこれからの」

飾り気はないがなぜかとても綺麗な印象を与える日記帳。

「あたしは、じきに消えるわ」

場が、一瞬凍りつく。

「でも、そのすべてが消えるわけじゃない」

日記帳を掲げる。

「これはあたしが存在した証。だから、これを使って賭け(・・)をしてみようと思うの」

ルールは簡単。

明架が消えた日から、この日記を雅孝が保管する。そしてその(・・)()から(・・)二十年後(・・・・)にこの日記を明架の元に送り届けること。

雅孝は、この日までけして明架の前に現れないこと。そして、もしほかに好きな人ができたらこの日記を燃やすこと。

明架は、たとえ「人格」が戻ったとしてもこの日まで雅孝のもとにいかないこと。

これは試練だった。

雅孝が、本当にいつまでも明架を好きでいられるか。

明架が、「病」などに屈さず雅孝を思い出し、気持ちを貫けるのか。

分の悪い賭けだと思う。

でも、

「受けてやるよ、その賭け」

雅孝が小指を差し出す。

満面の笑みだった。

明架の表情が、涙に歪んだ。

「……もしこの賭けが成功したら、一生をあんたに捧げてあげる。だから……」

小指が絡む。

「まかせとけ。もしその日までに帰ってきてなかったら、俺が引きずり戻してやる。だから、いまの言葉、忘れんなよ」

――約束だ。

指きりが終わっても、ふたりの小指が離れることはなかった。

  

       ♪

 

「賭け、勝ったな」

少年のように、雅孝は笑った。

「……うん、……うん」

明架は、ただ頷くことしかできなかった。

そんな様子を見た雅孝は、明架の目の前にひとつの小箱を差し出した。

「……?」

開けてみろ、と目で促がす。

おそるおそるという感じで、明架はその小箱を開けた。

中に入っていたのは、小さなリング。

目をひく派手さはないが、いかにも丁寧に作りこまれたそれは、とても高価なものに見えた。

そう、まるで。

「二十年。ずっと待ってた」

と、雅孝が(ひざまず)き花束を差し出した。

そして、今までで一番真剣な声で、

「結婚しよう。明架」

最強の破壊力だった。

 

 

後日談

その後、ふたりは帰り足で婚姻届を提出し、その一週間後には式をあげた。

明架は両親と和解し、雅孝はこの二十年の間に広げた人脈と人望でなにやら大出世しており、家族との関係も良好らしい。

なお、親類一同がビビるほどのアツアツぶりで出発した新婚旅行は、雅孝の全治二ヶ月の怪我で幕を降ろした。

旅行中にこんなことが発覚した。

実は雅孝は明架と出会うさらに前から{発症者}であり、明架のすぐ後に自分も一度は消えたこと。その後、過去最短記録(十年)で「人格」を復帰。{発症}云々で失っていたやる気を復活させ、本来の才能を見事開花させた。引きこもっていた真の理由はここにあったといえる。このことを隠していたことが、明架的に納得がいかなかったらしい。

 

「つまり、あの状況下であたしに隠し事してたのね?」

「まて、あの状況ではしかたなかった! 一応それとなく口には出してたんだが……」

「問答無用」

以下略。

 

のちに彼らを見た医者達はこう語ったという。

「愛の起こした奇跡」

陳腐だが、世界とはそういうものらしい。

少なくとも彼ら以外{発症}してから「五十年(・・・)以内(・・)に「人格」を復帰した者はいない。

現代における「もうひとつの死」の克服者。

未来への希望の体現者。

彼らを知るものたちはみな、口々でそう称える。

しかし、彼らはこう答えるのだ。

悪戯っぽく微笑みながら。

その姿いっぱいに幸せをふりまきながら。

 

「これが、普通ですよ」

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